昨日は、大通りのフランス語学校の中でやっていた、ウイリアム・モリスの展覧会に行きました。
タダで見れるやつなので、数は少なかったけれど、すごく良かった。
アールヌーヴォーのもとになってるって言ってました。草花を多くかいてるからかな。
今日は、本屋でやってた、アイヌの展示も観ました。道具がかっこよかった。
衣装も、すべてが良いとは思わなかったけど、いくつかいいのがありました。
2010年5月29日土曜日
2010年5月27日木曜日
素晴らしき日曜日
黒澤明、小津安二郎、溝口健二、もし日本映画の好きな監督を3人あげろといわれれば、ベタだけれど、この3人をあげる。ただ、小津安二郎と溝口健二は、正直言ってこの半年くらいの間に知った。
日本映画で重要な監督は黒澤明しかいない、恥ずかしながらそう思っていた。
他にも優秀な監督はいるのだが、それでも知名度、実力、実績、すべてが他の追随を許さないほどにずば抜けている。
なぜこれほどの差をつけられたのか。ずば抜けて高い基礎技術や、失敗をすぐ隣におくことによって生まれる圧倒的な緊張感。それだけでも大きな差を作っている。しかし、一番はそのアヴァンギャルドなアイデアではないかと思う。
あれだけの地位を築きながら、常に新しいものを求め、前へ進むことを恐れない。
時間構成、息を呑むロングショット、映画史に残る色使い、
後の外国映画監督が拝借したアイデアは数知れない。
この作品では、電車を横から追いかけるように撮影し、主人公は観客に話しかける。
おそらく電車のシーンは、車を横から走らせたか、もうひとつの車線に同時に走る電車から撮ったのではないかと思う。どちらにしても、重要ではない場面でこの手間のかかるカットを撮ろうなんて、並みの監督ならば考えない。
観客に拍手を求めるシーンでは、それまで不幸なカップルの傍観者でしかなかった観客が、一瞬にしてこの映画の登場人物になる資格を与えられる。
さらに、この作品では衣装も非常に質が高い。40年代という時代もあるが、そのボロボロの衣装は、高級感が漂っている。
もしもタイムスリップをすることができるならば、この映画が上映されている映画館へ行ってみたい。この時代の観客たちは、拍手をしているのだろうか。
日本映画で重要な監督は黒澤明しかいない、恥ずかしながらそう思っていた。
他にも優秀な監督はいるのだが、それでも知名度、実力、実績、すべてが他の追随を許さないほどにずば抜けている。
なぜこれほどの差をつけられたのか。ずば抜けて高い基礎技術や、失敗をすぐ隣におくことによって生まれる圧倒的な緊張感。それだけでも大きな差を作っている。しかし、一番はそのアヴァンギャルドなアイデアではないかと思う。
あれだけの地位を築きながら、常に新しいものを求め、前へ進むことを恐れない。
時間構成、息を呑むロングショット、映画史に残る色使い、
後の外国映画監督が拝借したアイデアは数知れない。
この作品では、電車を横から追いかけるように撮影し、主人公は観客に話しかける。
おそらく電車のシーンは、車を横から走らせたか、もうひとつの車線に同時に走る電車から撮ったのではないかと思う。どちらにしても、重要ではない場面でこの手間のかかるカットを撮ろうなんて、並みの監督ならば考えない。
観客に拍手を求めるシーンでは、それまで不幸なカップルの傍観者でしかなかった観客が、一瞬にしてこの映画の登場人物になる資格を与えられる。
さらに、この作品では衣装も非常に質が高い。40年代という時代もあるが、そのボロボロの衣装は、高級感が漂っている。
もしもタイムスリップをすることができるならば、この映画が上映されている映画館へ行ってみたい。この時代の観客たちは、拍手をしているのだろうか。
2010年5月26日水曜日
フィメール・トラブル
大きく成功した作品の後というのは、その監督の本当の実力がわかる。
たまたま他の作品からの猿真似がヒットしただけなのか。
それとも本当に基礎技術とアイデア、インテリジェンスを備えていたのか。
ジョン・ウォーターズ監督は過去の作品から基礎技術を学び、肥溜めの中からに光るダイヤモンドのようなアイデアを、そのインテリジェンスをもって最高の作品へと昇華している。
この映画はセンスの塊のような映画だ。
チープで、エレガントで、クラシックで、モダンで、上品さはないけれど、とてつもなく下品だ。
異なる要素を感じ取ることができる作品を作るのは、たとえ偶然だとしても、簡単ではない。
この映画のために書き下ろされた主題歌、素晴らしき70年代前半の衣装、ジョン・ガリアーノが地味に見えてしまうほどのヘアメイク、すべてが最高といえる質を持っている。
自分の子供のヘソの緒を噛みちぎり、姑を誘拐し、腕を切断する。
顔に硫酸をかけられ、醜くなった顔を見て、友人たちは前よりも美しいと言う。
こんなに素晴らしいことはない。
たまたま他の作品からの猿真似がヒットしただけなのか。
それとも本当に基礎技術とアイデア、インテリジェンスを備えていたのか。
ジョン・ウォーターズ監督は過去の作品から基礎技術を学び、肥溜めの中からに光るダイヤモンドのようなアイデアを、そのインテリジェンスをもって最高の作品へと昇華している。
この映画はセンスの塊のような映画だ。
チープで、エレガントで、クラシックで、モダンで、上品さはないけれど、とてつもなく下品だ。
異なる要素を感じ取ることができる作品を作るのは、たとえ偶然だとしても、簡単ではない。
この映画のために書き下ろされた主題歌、素晴らしき70年代前半の衣装、ジョン・ガリアーノが地味に見えてしまうほどのヘアメイク、すべてが最高といえる質を持っている。
自分の子供のヘソの緒を噛みちぎり、姑を誘拐し、腕を切断する。
顔に硫酸をかけられ、醜くなった顔を見て、友人たちは前よりも美しいと言う。
こんなに素晴らしいことはない。
2010年5月25日火曜日
ロスト・ハイウェイ
僕が初めて観たデヴィッド・リンチ監督の作品はこれだった。
最初は、映像が暗く、部屋の電気を消した。
次に、セリフが聞き取れず、ヘッドフォンを付けた。
観れなかった。怖かった。
たしか17歳くらいだったと思うけれど、これを観ると眠れなくなる、と体が拒否反応を起こすように、ヘッドフォンを外し、昼間に観ようと決めた。
今思えば、夜中に部屋を暗くし、ヘッドフォンをする。その映画館的な視聴方法が、デヴィッド・リンチの作品ほぼすべてに共通する正しい見かただった。
「ロスト・ハイウェイ」はリンチ監督の作品の中でも主観的なカットが多く、部屋を暗くし、ボリュームを上げた生活音をヘッドフォンで直に聞く事で、そこにいるかのような錯覚を受ける。
この手法が最大限に発揮される、ドアを開けるシーンでは、サスペンスでありながら、ホラー映画を軽く超えるだけの恐怖を受けた。
この作品は半分に区切ることができ、半分が夢のシーンでできている。
夢のような現実と、現実のような夢。
これが観ているものを混乱させ、眠りに入る直前のような浮遊感を得ることができる。
僕は、この映画からデヴィッド・リンチが見ている悪夢の中に入り込んだ。
いまだにその悪夢から抜け出せていない。
最初は、映像が暗く、部屋の電気を消した。
次に、セリフが聞き取れず、ヘッドフォンを付けた。
観れなかった。怖かった。
たしか17歳くらいだったと思うけれど、これを観ると眠れなくなる、と体が拒否反応を起こすように、ヘッドフォンを外し、昼間に観ようと決めた。
今思えば、夜中に部屋を暗くし、ヘッドフォンをする。その映画館的な視聴方法が、デヴィッド・リンチの作品ほぼすべてに共通する正しい見かただった。
「ロスト・ハイウェイ」はリンチ監督の作品の中でも主観的なカットが多く、部屋を暗くし、ボリュームを上げた生活音をヘッドフォンで直に聞く事で、そこにいるかのような錯覚を受ける。
この手法が最大限に発揮される、ドアを開けるシーンでは、サスペンスでありながら、ホラー映画を軽く超えるだけの恐怖を受けた。
この作品は半分に区切ることができ、半分が夢のシーンでできている。
夢のような現実と、現実のような夢。
これが観ているものを混乱させ、眠りに入る直前のような浮遊感を得ることができる。
僕は、この映画からデヴィッド・リンチが見ている悪夢の中に入り込んだ。
いまだにその悪夢から抜け出せていない。
2010年5月24日月曜日
戦場にかける橋
努力しても、身を結ばない、なんてことはざらにある。結局努力は自分を安心させるためで、しなくても安心できるならばしなくたっていい。ただ、失敗すれば、それについて考える。努力に裏切られたと思うのか、精一杯やった自分に満足するのか、それとも足りなかったのか。いや、他に問題があったのか。
僕はサッカーをやっていた時、精一杯努力したつもりだった。いや、努力している、という自分に満足してしまっていたのかもしれない。自分への失望は大きかった。
この映画に登場する斉藤大佐はプライドを傷つけられ、失望する。しかし、日本の掛け軸を大佐と同じ画面に横並びで映すことで、日本人としての誇りを傷つけられたことを意味し、またその誇りをすべて失ったわけではないということを表現している。
映画の後半では、テンポを遅らせ、音楽を減らし、鳥の鳴き声などの自然音を多く入れている。
ゆったりとしたリズムは、戦争による殺人は罪になるのか、を観客に考えさせる狙いがあり、台詞を減らし、音楽を入れないことで、銃や火薬による爆発音をより際立たせる。
衣装もよくできている。ほぼすべての登場人物が着ているサファリシャツは汚れ具合に差をつけることで、階級の違いを表している。
もしも橋を作らなかったら?いや、後悔したとしてもこの壮大な努力はきっと必要だった。
悪いのは努力をしたほうじゃない。
僕はサッカーをやっていた時、精一杯努力したつもりだった。いや、努力している、という自分に満足してしまっていたのかもしれない。自分への失望は大きかった。
この映画に登場する斉藤大佐はプライドを傷つけられ、失望する。しかし、日本の掛け軸を大佐と同じ画面に横並びで映すことで、日本人としての誇りを傷つけられたことを意味し、またその誇りをすべて失ったわけではないということを表現している。
映画の後半では、テンポを遅らせ、音楽を減らし、鳥の鳴き声などの自然音を多く入れている。
ゆったりとしたリズムは、戦争による殺人は罪になるのか、を観客に考えさせる狙いがあり、台詞を減らし、音楽を入れないことで、銃や火薬による爆発音をより際立たせる。
衣装もよくできている。ほぼすべての登場人物が着ているサファリシャツは汚れ具合に差をつけることで、階級の違いを表している。
もしも橋を作らなかったら?いや、後悔したとしてもこの壮大な努力はきっと必要だった。
悪いのは努力をしたほうじゃない。
2010年5月23日日曜日
2010年5月22日土曜日
a single man
この映画は30分くらいまで観てやめてしまったので、レビューではありません。
とりあえず思ったことを記録しておこうと思います。
僕は監督がトム・フォードだということを意識しすぎたのかもしれない。
どうしても途中から、トム・フォードのコマーシャルにみえてきて、お金を適当に使いまくって、ただの趣味でこの映画を作ったんではないかと思い始めると、イライラしてきてしまった。
まず、主人公コリン・ファースのシャツとネクタイはモダン過ぎるんじゃないか、と思った。
おそらく撮影機材の影響か、編集の段階で、エフェクトをかけたか、その影響もあるかもしれない。映画全体の色使いも違う。
ただ、コリンファースの眼鏡は、おそらくフェリーニの8 1/2でのマルチェロ・マストロヤンニの眼鏡をイメージしていて、よくできていた。もしかするとTマークがないので、ヴィンテージかもしれない。
僕が思う映画の衣装というのは、その人物が本当にいつも着ている服にみえるかどうか、着させられてはいないか、ということをみているけれど、この映画に関しては、全員がピカピカの新品を着させられているというイメージを持った。
もちろん洋服としては、最高のレベルにある。でも、もっと汚れた服を着ている人物がいないと、雰囲気はでないし、1962年という設定も、いまいちリアリティが出ない。
ところどころスローにする演出も効いていない、カットの切り替えのタイミングも悪い、音楽の使い方も下手でトム・フォードに映画監督としての才能はない。
お金をかけていることが、音楽やセットをみてもわかるだけに、余計にイライラさせられる。
十分にスタッフや機材にお金だけかけて、基礎技術やアイデアが足りないのをみると、レディ・ガガを連想した。
全部を通して観ていないので、偉そうなことは言えない。
ただ、もしトム・ブラウンが映画を作れば、きっとこの作品以上のものを作れる。
とりあえず思ったことを記録しておこうと思います。
僕は監督がトム・フォードだということを意識しすぎたのかもしれない。
どうしても途中から、トム・フォードのコマーシャルにみえてきて、お金を適当に使いまくって、ただの趣味でこの映画を作ったんではないかと思い始めると、イライラしてきてしまった。
まず、主人公コリン・ファースのシャツとネクタイはモダン過ぎるんじゃないか、と思った。
おそらく撮影機材の影響か、編集の段階で、エフェクトをかけたか、その影響もあるかもしれない。映画全体の色使いも違う。
ただ、コリンファースの眼鏡は、おそらくフェリーニの8 1/2でのマルチェロ・マストロヤンニの眼鏡をイメージしていて、よくできていた。もしかするとTマークがないので、ヴィンテージかもしれない。
僕が思う映画の衣装というのは、その人物が本当にいつも着ている服にみえるかどうか、着させられてはいないか、ということをみているけれど、この映画に関しては、全員がピカピカの新品を着させられているというイメージを持った。
もちろん洋服としては、最高のレベルにある。でも、もっと汚れた服を着ている人物がいないと、雰囲気はでないし、1962年という設定も、いまいちリアリティが出ない。
ところどころスローにする演出も効いていない、カットの切り替えのタイミングも悪い、音楽の使い方も下手でトム・フォードに映画監督としての才能はない。
お金をかけていることが、音楽やセットをみてもわかるだけに、余計にイライラさせられる。
十分にスタッフや機材にお金だけかけて、基礎技術やアイデアが足りないのをみると、レディ・ガガを連想した。
全部を通して観ていないので、偉そうなことは言えない。
ただ、もしトム・ブラウンが映画を作れば、きっとこの作品以上のものを作れる。
2010年5月20日木曜日
お祭り
もう行くことができないかもしれないから、神社のお祭りに、多分小学生のとき以来、行ってみました。
懐かしい気分を少し思い出しました。小学生のパワーはすごいな。
一周して、なんか具合が悪くなってきたので、帰りました。
でも行けてよかった。
懐かしい気分を少し思い出しました。小学生のパワーはすごいな。
一周して、なんか具合が悪くなってきたので、帰りました。
でも行けてよかった。
わらの犬
映画を観るときは、最初の5分間は特に集中して観る。
もしその中で映画としての技術が明らかに足りていないときには、観るのを止めてしまう。
音楽、構図、衣装、セット、演技、照明、音声、、、
イライラしてしまい、観ることができない。
もしもこの映画の評判を見ていなければ、5分で観ることを止めていた。
そのくらいこの映画はダスティン・ホフマンの素晴らしい演技を除いて、技術的な面から見れば質は低い。
ただその質の低さが、映画自体に閉鎖的なイメージを与え、舞台であるイギリスの小さな村という閉鎖的な部分とリンクさせる狙いがある、と言えなくはない。
それでもこの作品を歴史に残る作品としている理由は、今の時代にも強烈に映る強いメッセージ性によるところが大きい。
アメリカ人を異国であるイギリスへ移住させ、言葉による正義を訴えても、結局は暴力は暴力でしか解決できない、というアメリカ人的な思想をあえて提示することで、サム・ペキンパー監督のベトナム戦争への皮肉的なメッセージともとることができる。
技術的な面はいまいちだが、主人公へ感情移入させるという点ではずば抜けて優れている。
小さなキズをゆっくりと積み重ね、大きなキズとなる出来事は観客にしか見せていない。
僕は数多くの映画を観てきたので、映画による刺激にはある種マヒしてしまったと思っていた。
しかし、ディヴィッドの妻であるエイミーがレイプされるシーンでは、わざと長々とみせることで、観客に負のアドレナリンを分泌させ、嫌悪感を抱かせるという手法を使っている。
僕はこのシーンで、なぜ自分はこの映画を観てしまったのか。と後悔してしまった。
同じ1971年に公開された、似たテーマを持つ「時計じかけのオレンジ」が表ならば、この映画は裏だ。しかし、メッセージ性については、こちらのほうが強烈な光を放っている。
結局人間は、追い詰められれば簡単にただの動物へ戻ってしまう。
もしその中で映画としての技術が明らかに足りていないときには、観るのを止めてしまう。
音楽、構図、衣装、セット、演技、照明、音声、、、
イライラしてしまい、観ることができない。
もしもこの映画の評判を見ていなければ、5分で観ることを止めていた。
そのくらいこの映画はダスティン・ホフマンの素晴らしい演技を除いて、技術的な面から見れば質は低い。
ただその質の低さが、映画自体に閉鎖的なイメージを与え、舞台であるイギリスの小さな村という閉鎖的な部分とリンクさせる狙いがある、と言えなくはない。
それでもこの作品を歴史に残る作品としている理由は、今の時代にも強烈に映る強いメッセージ性によるところが大きい。
アメリカ人を異国であるイギリスへ移住させ、言葉による正義を訴えても、結局は暴力は暴力でしか解決できない、というアメリカ人的な思想をあえて提示することで、サム・ペキンパー監督のベトナム戦争への皮肉的なメッセージともとることができる。
技術的な面はいまいちだが、主人公へ感情移入させるという点ではずば抜けて優れている。
小さなキズをゆっくりと積み重ね、大きなキズとなる出来事は観客にしか見せていない。
僕は数多くの映画を観てきたので、映画による刺激にはある種マヒしてしまったと思っていた。
しかし、ディヴィッドの妻であるエイミーがレイプされるシーンでは、わざと長々とみせることで、観客に負のアドレナリンを分泌させ、嫌悪感を抱かせるという手法を使っている。
僕はこのシーンで、なぜ自分はこの映画を観てしまったのか。と後悔してしまった。
同じ1971年に公開された、似たテーマを持つ「時計じかけのオレンジ」が表ならば、この映画は裏だ。しかし、メッセージ性については、こちらのほうが強烈な光を放っている。
結局人間は、追い詰められれば簡単にただの動物へ戻ってしまう。
2010年5月18日火曜日
マイ・ライフ、マイ・ファミリー
僕のおじいちゃんは、二人とも、天国に移住してしまっていて、もう帰ってきそうにない。
おじいちゃんが死んだと聞いたとき、涙ひとつ出なかったし、悲しくもならなかった。
むしろ、自分には悲しいという感情さえがなくなってしまったんだろうか、と考えて、涙が出た。
おじいちゃんは福岡に住んでいて、あまり一緒に過ごす時間がなかったからかもしれない。
もっと近い人が死んだら、悲しくなるんだろうか。
この映画のように、ボケ始めて、少しづつ弱っていって、それを近くで見ていれば、きっと、自分のことなんて考えずに、涙がこぼれる。
タマラ・ジェンキンスという女性監督は、いくつかの賞を獲得した脚本を含め、この映画で素晴らしい仕事をしている。
特に編集はこれ以上ないほど出来はいい。カット割り、次のシーンへの切り替えのタイミングは、0,1秒をも計算されていると思うほど完璧に切り替わっていく。
衣装や音楽の質は高くはないが、フィリップ・シーモア・ホフマンは今回も最高の演技をみせている。
これほどの作品が、なぜ日本で劇場公開されなかったのかわからない。
なぜこんな邦題をつけたのか。「The Savages」のままで十分だった。
この映画で死ぬのは主人公の父親で、祖父ではない。
僕の父親はまだ生きていて、まだ認知症にはなっていない。
きっとまだ、遅くない。
おじいちゃんが死んだと聞いたとき、涙ひとつ出なかったし、悲しくもならなかった。
むしろ、自分には悲しいという感情さえがなくなってしまったんだろうか、と考えて、涙が出た。
おじいちゃんは福岡に住んでいて、あまり一緒に過ごす時間がなかったからかもしれない。
もっと近い人が死んだら、悲しくなるんだろうか。
この映画のように、ボケ始めて、少しづつ弱っていって、それを近くで見ていれば、きっと、自分のことなんて考えずに、涙がこぼれる。
タマラ・ジェンキンスという女性監督は、いくつかの賞を獲得した脚本を含め、この映画で素晴らしい仕事をしている。
特に編集はこれ以上ないほど出来はいい。カット割り、次のシーンへの切り替えのタイミングは、0,1秒をも計算されていると思うほど完璧に切り替わっていく。
衣装や音楽の質は高くはないが、フィリップ・シーモア・ホフマンは今回も最高の演技をみせている。
これほどの作品が、なぜ日本で劇場公開されなかったのかわからない。
なぜこんな邦題をつけたのか。「The Savages」のままで十分だった。
この映画で死ぬのは主人公の父親で、祖父ではない。
僕の父親はまだ生きていて、まだ認知症にはなっていない。
きっとまだ、遅くない。
食人族
カニバリズム、人肉嗜食、ゾンビ、僕は変態なので、なぜかこれらに魅力を感じてしまう。
しかし、日本人にとって、人肉を食すという行為とは無関係とはいえないのかもしれない。
嘘か本当かわからないが、南米のどこかの民族は、伝統的に人肉を食す習慣が今現在も残っており、その中でも野菜を多く摂っている日本人、男性よりも女性が世界中のどの人種よりも美味だと語っていた。
「食人族」はフェイクドキュメンタリーの元祖的な作品で、最近の作品と違う点は、謎解きの要素が少ないという点がある。
食人族と文化人、本当に人間を食べているのはどっちだ。という裏のテーマはあるが、単純にリアルだと思わせるように構成されているため、特にこのテーマを隠そうとはしていない。
音楽も優れていて、全編に使われるチープで気の抜けた音は、観客の吐き気を増強させる。
演技や特殊メイク、セット、演出などもよくできており、映画としての質は非常に高い。
僕はこの映画を観て、2,3日は肉を普通に食べられなかった。亀を見ると、今でもこの映画を思い出し、目を背けてしまう。
もしもベジタリアンになろうと思ったら、真っ先にもう一度この映画を観ようと思う。
しかし、日本人にとって、人肉を食すという行為とは無関係とはいえないのかもしれない。
嘘か本当かわからないが、南米のどこかの民族は、伝統的に人肉を食す習慣が今現在も残っており、その中でも野菜を多く摂っている日本人、男性よりも女性が世界中のどの人種よりも美味だと語っていた。
「食人族」はフェイクドキュメンタリーの元祖的な作品で、最近の作品と違う点は、謎解きの要素が少ないという点がある。
食人族と文化人、本当に人間を食べているのはどっちだ。という裏のテーマはあるが、単純にリアルだと思わせるように構成されているため、特にこのテーマを隠そうとはしていない。
音楽も優れていて、全編に使われるチープで気の抜けた音は、観客の吐き気を増強させる。
演技や特殊メイク、セット、演出などもよくできており、映画としての質は非常に高い。
僕はこの映画を観て、2,3日は肉を普通に食べられなかった。亀を見ると、今でもこの映画を思い出し、目を背けてしまう。
もしもベジタリアンになろうと思ったら、真っ先にもう一度この映画を観ようと思う。
いつものように
いつものように自分で髪を切りはじめ、
いつものように止まらなくなり、
いつものように失敗し、
いつものように後悔し、
いつものようにイライラして、バリカンで坊主にすることだけは今回は我慢しました。
いつになったら、今日は成功した!って思えるんだろう。
いつものように止まらなくなり、
いつものように失敗し、
いつものように後悔し、
いつものようにイライラして、バリカンで坊主にすることだけは今回は我慢しました。
いつになったら、今日は成功した!って思えるんだろう。
2010年5月16日日曜日
悪い種子
天使と聞けば、きっと誰でも子供を思い浮かべる。悪魔と聞けば、僕は、怪物を思い浮かべた。ほとんどの人は、大人、もしくは怪物を思い浮かべるのではないかと思う。
しかし、本当の悪魔の姿は誰にもわからない。もしかすると、それは子供なのかもしれない。
子供の心の中には悪意は存在しない。大人になれば、簡単にアリを踏み潰してやろうなどとは思わない。
それはアリの命を奪うという悪意が心の中で働くからであり、子供が悪意なくトンボの羽をもぎ取る行為とは違う。
子供の悪意なき悪戯はどこから生まれるのか。親から受け継ぐ遺伝子がそうさせるのか。嫉妬、愛情への飢えからか。サイコパス。いや、だれかに操られているだけなのかもしれない。
この映画の悪魔の化身ローダは、愛情の飢えからではなく、殺人鬼である祖母からの隔世遺伝によって、特別な殺人の才能を与えられた。
彼女は優れた殺人鬼に必要な能力、決して揺るぐことがない冷静さを持っている。
最後は天によって罰せられるが、それはなにを意味しているのだろう。
神にしか、彼女の純粋な悪戯は罰することができないということか。
しかし、本当の悪魔の姿は誰にもわからない。もしかすると、それは子供なのかもしれない。
子供の心の中には悪意は存在しない。大人になれば、簡単にアリを踏み潰してやろうなどとは思わない。
それはアリの命を奪うという悪意が心の中で働くからであり、子供が悪意なくトンボの羽をもぎ取る行為とは違う。
子供の悪意なき悪戯はどこから生まれるのか。親から受け継ぐ遺伝子がそうさせるのか。嫉妬、愛情への飢えからか。サイコパス。いや、だれかに操られているだけなのかもしれない。
この映画の悪魔の化身ローダは、愛情の飢えからではなく、殺人鬼である祖母からの隔世遺伝によって、特別な殺人の才能を与えられた。
彼女は優れた殺人鬼に必要な能力、決して揺るぐことがない冷静さを持っている。
最後は天によって罰せられるが、それはなにを意味しているのだろう。
神にしか、彼女の純粋な悪戯は罰することができないということか。
2010年5月15日土曜日
マイ・プライベート・アイダホ
ワールドカップが近づけば、サッカーをその時代の最先端のアクセサリーであると思い込み、それについて語ることが何よりの喜びである人々が、ここぞとばかりに湧いて出る。
その会話は、その旅がどれだけ裏切られ、自身を苦しめ、死に近づきながらも、その中に喜びを見出したかについての話と同じ種類の不快感を聞き手に与える。
しかし、時にはその話を聞けるだけの寛大さも持たなければいけない。
「マイ・プライベート・アイダホ」は、いくつかのファッションブランドのイメージソースになっており、映画よりも先にそのことについて知ってしまえば、そのブランドのフォロワーと同じになってしまう恐怖から、ブランドを評価していないわけではなくとも、気軽に観ることを常に無宗教でいたい人々に禁じさせる。
この映画は確かに「カッコイイ」という印象を抱かせるだけの映像演出を誇っている。
その点でガス・ヴァン・サント監督の手腕は光る。
リバー・フェニックスの突き抜けるような完璧な演技とクールさは、ジェームス・ディーンと渡り合えるだけのクオリティを持っている。ただそのことが「その他」との差を際立たせ、この作品のバランスを崩し、完成度を低める要因となってしまった。
一本の作品の中で、演技の質が変化してしまう俳優がいては、映画としては致命的だ。
好きな映画としてこの作品を選択していいのは、ませた中学生か、その兄弟、18歳までだろう。
25歳になってこれを選べば、自身の価値を下げてしまう。
どうしても言いたければ、リバー・フェニックスが好き。これだけにしておいたほうがいい。
その会話は、その旅がどれだけ裏切られ、自身を苦しめ、死に近づきながらも、その中に喜びを見出したかについての話と同じ種類の不快感を聞き手に与える。
しかし、時にはその話を聞けるだけの寛大さも持たなければいけない。
「マイ・プライベート・アイダホ」は、いくつかのファッションブランドのイメージソースになっており、映画よりも先にそのことについて知ってしまえば、そのブランドのフォロワーと同じになってしまう恐怖から、ブランドを評価していないわけではなくとも、気軽に観ることを常に無宗教でいたい人々に禁じさせる。
この映画は確かに「カッコイイ」という印象を抱かせるだけの映像演出を誇っている。
その点でガス・ヴァン・サント監督の手腕は光る。
リバー・フェニックスの突き抜けるような完璧な演技とクールさは、ジェームス・ディーンと渡り合えるだけのクオリティを持っている。ただそのことが「その他」との差を際立たせ、この作品のバランスを崩し、完成度を低める要因となってしまった。
一本の作品の中で、演技の質が変化してしまう俳優がいては、映画としては致命的だ。
好きな映画としてこの作品を選択していいのは、ませた中学生か、その兄弟、18歳までだろう。
25歳になってこれを選べば、自身の価値を下げてしまう。
どうしても言いたければ、リバー・フェニックスが好き。これだけにしておいたほうがいい。
2010年5月14日金曜日
2010年5月13日木曜日
プレシャス
もしも一人になる時間が多くなれば、人は悩み、考え、また、そこから逃れるために自身の想像力に身を任せることもある。
現実世界が苦しくなるほど、頭の中に住む自分は光り輝き、そこでは地獄の向こうには天国があることが保障されている。
この映画は、同情さえ受け付けない主人公プレシャスの壮絶な人生を描いた原作、脚本によって映画の質を保っている。
しかし、この作品が評価されるのはごく少数の国々だけではないかと思う。
また、撮影技術、衣装、音楽からみて、80年代後半という時代をうまく表現できているとは言えず、この作品の賞味期限は5年といったところだろうか。
つまり、公開中という言葉が持つ新しさが魅力のひとつになってしまっている。
ただ、プレシャス役のガボリー・シディベと、母親役のモニークが持つ圧倒的な存在感は、決して薄れることはないだろう。
観るとすれば、今しかない。
現実世界が苦しくなるほど、頭の中に住む自分は光り輝き、そこでは地獄の向こうには天国があることが保障されている。
この映画は、同情さえ受け付けない主人公プレシャスの壮絶な人生を描いた原作、脚本によって映画の質を保っている。
しかし、この作品が評価されるのはごく少数の国々だけではないかと思う。
また、撮影技術、衣装、音楽からみて、80年代後半という時代をうまく表現できているとは言えず、この作品の賞味期限は5年といったところだろうか。
つまり、公開中という言葉が持つ新しさが魅力のひとつになってしまっている。
ただ、プレシャス役のガボリー・シディベと、母親役のモニークが持つ圧倒的な存在感は、決して薄れることはないだろう。
観るとすれば、今しかない。
2010年5月12日水曜日
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
成功にはリスクがあり、大きな成功ほど、失っていくものも多い。
知識をつける代わりに、自分の中で何かが失われていくのを感じる。
それでも知識欲は無くならない。
僕はやっと気がついた。冷静でいるよりも、必死でいるほう大事だ!
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」という映画は二時間超あるが、全編に漂う緊張感により、息をつかせず、より時間の流れを早く感じるだろう。
その一番の要因は音楽で、これは歴代の映画と比べても、遜色ないほど魅力的に聞こえた。
レディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドは、バンドでは才能の一片しか見せていなかったとばかりに、映画に完璧にマッチした不協和和音を多用したオーケストラのスコアを書き上げている。
セット、衣装については、DVD特典で見ることができる1900年前後という時代の写真をよく研究しており、ほぼ写真通りで、衣装はおそらくヴィンテージではないにしろ、非常によくできている。
また、ダニエル・デイ=ルイスの独特の間が生きている演技、爆発などのアクシデントをダイナミックに撮影した技術も素晴らしいものがある。
ただし、ラストシーンはもっと時間をかけるべきだった。
この映画の主人公であるダニエルとイーライは失うものを感じながらも、内側から湧き出る欲に飲み込まれた。
しかし、この弱さがなければ、人間とはいえない。
知識をつける代わりに、自分の中で何かが失われていくのを感じる。
それでも知識欲は無くならない。
僕はやっと気がついた。冷静でいるよりも、必死でいるほう大事だ!
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」という映画は二時間超あるが、全編に漂う緊張感により、息をつかせず、より時間の流れを早く感じるだろう。
その一番の要因は音楽で、これは歴代の映画と比べても、遜色ないほど魅力的に聞こえた。
レディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドは、バンドでは才能の一片しか見せていなかったとばかりに、映画に完璧にマッチした不協和和音を多用したオーケストラのスコアを書き上げている。
セット、衣装については、DVD特典で見ることができる1900年前後という時代の写真をよく研究しており、ほぼ写真通りで、衣装はおそらくヴィンテージではないにしろ、非常によくできている。
また、ダニエル・デイ=ルイスの独特の間が生きている演技、爆発などのアクシデントをダイナミックに撮影した技術も素晴らしいものがある。
ただし、ラストシーンはもっと時間をかけるべきだった。
この映画の主人公であるダニエルとイーライは失うものを感じながらも、内側から湧き出る欲に飲み込まれた。
しかし、この弱さがなければ、人間とはいえない。
乗り遅れた!
美術館の帰りに、北海道神宮にも久しぶりに行ってみました。
最近桜の木の近くを通っていなかったので、気がついたら桜が咲いていました。
日曜日だったので、若いお花見の人たちがいっぱいいて、少し息が詰まりました。
神宮に行ってから美術館に行けばよかったと思いました。
札幌も外国人が増えてきたなー
最近桜の木の近くを通っていなかったので、気がついたら桜が咲いていました。
日曜日だったので、若いお花見の人たちがいっぱいいて、少し息が詰まりました。
神宮に行ってから美術館に行けばよかったと思いました。
札幌も外国人が増えてきたなー
2010年5月9日日曜日
落ち着くために。
宮の森美術館に行ってきました。
マイケル・ケンナの写真展で、よかった。
美術館で写真をみるのは、芸術の森で印象派と写真の関係っていう展覧会以来だったと思うけれど、
きっとカメラはもちろん、紙と印刷もいいんだろうなー。
森山大道の写真も少しみれて、これも良かった。
最近、絵をみたり、今日写真をみて思ったのは、いかに書いたり、撮ったりしている自分の存在を消しているか、ということで、
作品をみて、作家がいることを想像できるか?を考えてみるのもおもしろいな、と思った。
普通に生活していても、見ることができない視点から物事をみる。
大事かもしれない。
マイケル・ケンナの写真展で、よかった。
美術館で写真をみるのは、芸術の森で印象派と写真の関係っていう展覧会以来だったと思うけれど、
きっとカメラはもちろん、紙と印刷もいいんだろうなー。
森山大道の写真も少しみれて、これも良かった。
最近、絵をみたり、今日写真をみて思ったのは、いかに書いたり、撮ったりしている自分の存在を消しているか、ということで、
作品をみて、作家がいることを想像できるか?を考えてみるのもおもしろいな、と思った。
普通に生活していても、見ることができない視点から物事をみる。
大事かもしれない。
デューン/砂の惑星
ストレスに、押しつぶされてしまう人がいる。
しかし、ストレスは適度に与えられるべきであり、ストレスのない生活ほど大きなストレスを感じることはない。
ストレスには肉体的なものと精神的なものがあり、その結果に充実感を得られなければ、人間は大きなダメージとして、そのストレスを負うことになってしまう。
イレイザーヘッドとエレファント・マンによって監督としての地位を獲得したデヴィッド・リンチ監督は、前監督の代わりという形で、製作総指揮を務めたイタリア人映画プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスによって、この作品の監督にそえられた。
僕は原作は読んではいない。原作者、原作ファンには、この作品は駄作として評価されている。
この映画は最終決定権をリンチ監督が持たなかったために、劇場用に短く編集されてしまった。
編集技術は素晴らしい。ただこれでは展開が早過ぎた。
最低でも倍の5時間、もしくはドラマ化すべきだった。
しかし、リンチ監督の基本的技術とインテリジェンスによって、映画ファンには駄作ではなく傑作と見られることが多い。
ただ、アイデアを出し切れたかというとそうではないように思う。
確かに芸術的なシュールレアリスムを魅せるものの、リンチ監督は音楽にブライアンイーノとTOTOがいたために、その暗闇のノイズをあまり出せていない。
とはいえ、心の声をステレオで左右に揺らすアイデアや、費用を十分にかけたセット、衣装などは今でも十分に通用する。
デヴィッド・リンチ監督のファンならば、見逃すことはできない偉大な失敗作。
しかし、ストレスは適度に与えられるべきであり、ストレスのない生活ほど大きなストレスを感じることはない。
ストレスには肉体的なものと精神的なものがあり、その結果に充実感を得られなければ、人間は大きなダメージとして、そのストレスを負うことになってしまう。
イレイザーヘッドとエレファント・マンによって監督としての地位を獲得したデヴィッド・リンチ監督は、前監督の代わりという形で、製作総指揮を務めたイタリア人映画プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスによって、この作品の監督にそえられた。
僕は原作は読んではいない。原作者、原作ファンには、この作品は駄作として評価されている。
この映画は最終決定権をリンチ監督が持たなかったために、劇場用に短く編集されてしまった。
編集技術は素晴らしい。ただこれでは展開が早過ぎた。
最低でも倍の5時間、もしくはドラマ化すべきだった。
しかし、リンチ監督の基本的技術とインテリジェンスによって、映画ファンには駄作ではなく傑作と見られることが多い。
ただ、アイデアを出し切れたかというとそうではないように思う。
確かに芸術的なシュールレアリスムを魅せるものの、リンチ監督は音楽にブライアンイーノとTOTOがいたために、その暗闇のノイズをあまり出せていない。
とはいえ、心の声をステレオで左右に揺らすアイデアや、費用を十分にかけたセット、衣装などは今でも十分に通用する。
デヴィッド・リンチ監督のファンならば、見逃すことはできない偉大な失敗作。
2010年5月7日金曜日
西鶴一代女
朝、昼、夜。
太陽の動きとともに、目覚め、気分は上昇し、日没は心に安らぎの時間を与え、人々は眠りにつく。
神様は、一日の時間の流れを、こう作った。
しかし、神様は映画の時間軸におけるルールを決めてはいない。
1日の間に朝が2度きても、1日が夜しかなくてもいい。
溝口健二監督は、黒澤明監督による革命的作品「羅生門」の2年後に、この作品を作った。
プロローグとエンディングをつなげるという、今でこそよく見られる手法だが、この時代ということを頭から消し去ってもなお、他の作品とは一線を画するだけの完成度をみせる。
さらに、この作品の日本音楽、雅楽や小唄の使い方は本当に素晴らしい。
主人公お春の心情、悲しみをこれ以上表現できる音楽は世界中にないのではないか。
溝口監督独特のカメラの長回し、田中絹代さんの年齢幅約40才を一人で演じきる演技、衣装、照明、録音など、どれをとっても完成度は高く、ヴェネチア国際映画祭の審査員たちは正しい評価を下した。
この映画の英語名は「The Life of Oharu」だが、お春の死までは描かれていない、お春にとって夜は寂しさと悲しみの象徴で、彼女の夜は他の誰よりも長い。
しかし、最後に迎える夜は、安らぎと、幸せに変わっていると想像できる。
太陽の動きとともに、目覚め、気分は上昇し、日没は心に安らぎの時間を与え、人々は眠りにつく。
神様は、一日の時間の流れを、こう作った。
しかし、神様は映画の時間軸におけるルールを決めてはいない。
1日の間に朝が2度きても、1日が夜しかなくてもいい。
溝口健二監督は、黒澤明監督による革命的作品「羅生門」の2年後に、この作品を作った。
プロローグとエンディングをつなげるという、今でこそよく見られる手法だが、この時代ということを頭から消し去ってもなお、他の作品とは一線を画するだけの完成度をみせる。
さらに、この作品の日本音楽、雅楽や小唄の使い方は本当に素晴らしい。
主人公お春の心情、悲しみをこれ以上表現できる音楽は世界中にないのではないか。
溝口監督独特のカメラの長回し、田中絹代さんの年齢幅約40才を一人で演じきる演技、衣装、照明、録音など、どれをとっても完成度は高く、ヴェネチア国際映画祭の審査員たちは正しい評価を下した。
この映画の英語名は「The Life of Oharu」だが、お春の死までは描かれていない、お春にとって夜は寂しさと悲しみの象徴で、彼女の夜は他の誰よりも長い。
しかし、最後に迎える夜は、安らぎと、幸せに変わっていると想像できる。
2010年5月5日水曜日
ミスター・ロンリー
カート・コバーンは増えすぎた観客の歓声の大きさと自分の弱さとの違いを嘆いた。エリック・クラプトンも同じだという。
表現者は、弱さを持っている。いや、人とは違う圧倒的な弱さがないと、優れた表現者にはなれないのかもしれない。
表現者達は、いつも一人で戦っていて、それは、孤独によって自己のクリエイティビティを限界まで引き出せるからだ。
ただ、孤独を愛していて、孤立も同様に愛しているかというと、そうではないように思う。
孤立にたえられず、常に仲間を探しているが、集団での生活に嫌悪感を抱き、集団の外に出て、孤独である自分にナルシシズムを感じる。しかし、すぐにまた孤立を感じ始める。
この映画のオープニングはとにかく美しい。
Bobby vintonの「Mr.lonely」にのせて、マイケルが人形のバブルスを紐でつなぎ、サーキットをキッズバイクで走る。ただそれだけで、このオープニングは鳥肌が立つほどの美しさを誇る。
ハーモニー・コリン監督は偉大なオープニングに負けないだけの本編も作り上げた。
しかし、この美しさに映画界から与えられた賞はなかった。
表現者は、弱さを持っている。いや、人とは違う圧倒的な弱さがないと、優れた表現者にはなれないのかもしれない。
表現者達は、いつも一人で戦っていて、それは、孤独によって自己のクリエイティビティを限界まで引き出せるからだ。
ただ、孤独を愛していて、孤立も同様に愛しているかというと、そうではないように思う。
孤立にたえられず、常に仲間を探しているが、集団での生活に嫌悪感を抱き、集団の外に出て、孤独である自分にナルシシズムを感じる。しかし、すぐにまた孤立を感じ始める。
この映画のオープニングはとにかく美しい。
Bobby vintonの「Mr.lonely」にのせて、マイケルが人形のバブルスを紐でつなぎ、サーキットをキッズバイクで走る。ただそれだけで、このオープニングは鳥肌が立つほどの美しさを誇る。
ハーモニー・コリン監督は偉大なオープニングに負けないだけの本編も作り上げた。
しかし、この美しさに映画界から与えられた賞はなかった。
衝動
道路のそばを自転車で走っていて、歩いていて、ふと、向かってくる自動車に飛び込みたい衝動に襲われる。
5メートル、10メートル吹っ飛び、倒れる。
痛い、痛い、と泣きながら、気がつくと、上から自分の姿を見ている。
気を抜けば気分は上下し、最高に見えたものが、下品で、腐った物体に変わって見える。
すべてが夢の中の出来事で、ボタンを押せば、時間は巻き戻る。
そんなことは、決して起こらないとわかっていても、この想像が頭から抜けず、
きっと今日もまた、その夢を見ます。
5メートル、10メートル吹っ飛び、倒れる。
痛い、痛い、と泣きながら、気がつくと、上から自分の姿を見ている。
気を抜けば気分は上下し、最高に見えたものが、下品で、腐った物体に変わって見える。
すべてが夢の中の出来事で、ボタンを押せば、時間は巻き戻る。
そんなことは、決して起こらないとわかっていても、この想像が頭から抜けず、
きっと今日もまた、その夢を見ます。
2010年5月4日火曜日
スイミング・プール
僕は、映画を観るときには予告編には触れないようにしている。
もしも「衝撃のラストが!」なんて、もう観れない。
なぜ監督は衝撃のラストを用意したのか!
でも映画のレビューを書くときは、地味になるので、予告も付けています。ごめんなさい。
例えばオリンピックなんかでも、編集された映像は見たくない。
第一レースが終わり、第二レースが始まる。その間は無駄じゃない。
前のレースを振り返り、次のレースに期待を膨らませるためで、急いではいけない。
「スイミングプール」は観る人に考えをめぐらすための時間を与えてくれている。
展開を急ぐ必要はない。
起こった出来事を頭で整理し、登場人物の所作に想像を膨らませることに、この映画の楽しみがある。
またこの作品では現代のブリジット・バルドーである若きリュディヴィーヌ・サニエもじっくりと堪能できる。決して並外れた美しさを持っているわけではない、ただ、男であれば、魅了されずにはいられない。
女性と男性それぞれの目線を持つフランソワ・オゾン監督はすばらしい監督で、日本映画にも似た、フランス映画伝統のリズムを作る。
たっぷりとある時間の中で、自分には真実を見る目があるのか、この作品で試すことができる。
もしも「衝撃のラストが!」なんて、もう観れない。
なぜ監督は衝撃のラストを用意したのか!
でも映画のレビューを書くときは、地味になるので、予告も付けています。ごめんなさい。
例えばオリンピックなんかでも、編集された映像は見たくない。
第一レースが終わり、第二レースが始まる。その間は無駄じゃない。
前のレースを振り返り、次のレースに期待を膨らませるためで、急いではいけない。
「スイミングプール」は観る人に考えをめぐらすための時間を与えてくれている。
展開を急ぐ必要はない。
起こった出来事を頭で整理し、登場人物の所作に想像を膨らませることに、この映画の楽しみがある。
またこの作品では現代のブリジット・バルドーである若きリュディヴィーヌ・サニエもじっくりと堪能できる。決して並外れた美しさを持っているわけではない、ただ、男であれば、魅了されずにはいられない。
女性と男性それぞれの目線を持つフランソワ・オゾン監督はすばらしい監督で、日本映画にも似た、フランス映画伝統のリズムを作る。
たっぷりとある時間の中で、自分には真実を見る目があるのか、この作品で試すことができる。
レクイエム・フォー・ドリーム
煙草を吸わず、酒も飲まず、コーヒーさえあまり好きじゃない。もちろん、ドラッグだってやったことはない。
僕は、簡単に言うと、子供と変わらない。ファッションとしてやるんだったら、最初から手を出さないほうがいい。
自殺とドラッグ、どっちがいいかと言われれば、ほとんどの人たちと同様に、僕もドラッグを選ぶ。
ドラッグによって引き起こされた多くの芸術を知っている。
それによってどれだけ多くの天才が死んでいったかについても知っている。
ただ、危険を冒してからでも、死ぬのは遅くない。
僕は日本人なので、この映画のドラッグについては語れない。
しかし、映画のディティールについてならば、少しは書くことができる。
この作品は、今観れば、古さを感じるかもしれない。
それは、撮影機材、衣装、音楽からきている。
音楽については、クリント・マンセルはすばらしいアイデアを出している。しかし、もう少し時間をかけてもよかった。複雑か、シンプルか。
二画面、早送り、手持ちカメラを固定し、自己を撮影するなど、ダーレン・アロノフスキー監督のアイデアは光っている。ただ完成の域までは達していないように思う。
脚本や、全体を暗い印象で覆った雰囲気はすばらしく、時を超えて語り継がれるだけの質は持っている。
It's All Right Ma, I'm Only Bleeding!
僕は、簡単に言うと、子供と変わらない。ファッションとしてやるんだったら、最初から手を出さないほうがいい。
自殺とドラッグ、どっちがいいかと言われれば、ほとんどの人たちと同様に、僕もドラッグを選ぶ。
ドラッグによって引き起こされた多くの芸術を知っている。
それによってどれだけ多くの天才が死んでいったかについても知っている。
ただ、危険を冒してからでも、死ぬのは遅くない。
僕は日本人なので、この映画のドラッグについては語れない。
しかし、映画のディティールについてならば、少しは書くことができる。
この作品は、今観れば、古さを感じるかもしれない。
それは、撮影機材、衣装、音楽からきている。
音楽については、クリント・マンセルはすばらしいアイデアを出している。しかし、もう少し時間をかけてもよかった。複雑か、シンプルか。
二画面、早送り、手持ちカメラを固定し、自己を撮影するなど、ダーレン・アロノフスキー監督のアイデアは光っている。ただ完成の域までは達していないように思う。
脚本や、全体を暗い印象で覆った雰囲気はすばらしく、時を超えて語り継がれるだけの質は持っている。
It's All Right Ma, I'm Only Bleeding!
2010年5月2日日曜日
ペイネ 愛の世界旅行
もし女の子に生まれれば、花柄のワンピースを着て、草原を走り回り、お花を集めて首輪を作ってみたい、と思うかもしれない。
すべてが希望に満ちていて、宇宙飛行士だって、学校の先生だって、お医者さんにだってなれる。
夢の中でなら、何でもできる。世界にも、手を差し伸べられる。
「ペイネ 愛の世界旅行」は女の子だけの夢ではなく、世界中すべての子供がみる夢の中を映画に映し出したような作品であるといえる。
物語をやや断片的にして、観る人を心地よい夢の世界に誘うリズムを作る。
僕はレイモン・ペイネという人を知らなかった。
もしもチェザーレ・ペルフェットという監督が、「ニューシネマ・パラダイス」などの音楽を担当したエンニオ・モリコーネと、もっと多くのアニメ映画を作っていたら、と思う。
僕がなぜこの映画を観ることになったのか、わからない。
なぜこの映画が現在名作として多くの人々に認知されていないのか、わからない。
すべてが希望に満ちていて、宇宙飛行士だって、学校の先生だって、お医者さんにだってなれる。
夢の中でなら、何でもできる。世界にも、手を差し伸べられる。
「ペイネ 愛の世界旅行」は女の子だけの夢ではなく、世界中すべての子供がみる夢の中を映画に映し出したような作品であるといえる。
物語をやや断片的にして、観る人を心地よい夢の世界に誘うリズムを作る。
僕はレイモン・ペイネという人を知らなかった。
もしもチェザーレ・ペルフェットという監督が、「ニューシネマ・パラダイス」などの音楽を担当したエンニオ・モリコーネと、もっと多くのアニメ映画を作っていたら、と思う。
僕がなぜこの映画を観ることになったのか、わからない。
なぜこの映画が現在名作として多くの人々に認知されていないのか、わからない。
イレイザーヘッド
一秒、一分、一時間、一日、一年、一生。
日々は過ぎ、時代は変わってゆく。
未来は今になり、今は過去になる。
新しくなった瞬間、今は古さを身に付ける。
昨日の新聞を古いと感じ、先週の雑誌の情報は更新され、去年のカレンダーももう使えない。
時代を感じる作品も愛おしい。でも、僕は時代という感覚を消し去ってくれる作品のほうが好きだ。
モノクロにすることは、時代の感覚を鈍らせる要因のひとつで、セット、衣装、メイク、音楽もその仲間に入る。
古い技術を前衛的なアイデアにのせる事で、過去と未来を混ぜ合わせ、映画の中の「今」をどこかへ持っていく。
デヴィッド・リンチ監督はこの映画で、自身の代名詞ともいえる、ノイズと主観の組み合わせというテクニックを既に完成させている。
暗闇を使った恐怖の演出は、「カリガリ博士」を思い浮かべた。
過去でも未来でもない。見た瞬間に今に変わる。
この作品に時代は存在しない。
日々は過ぎ、時代は変わってゆく。
未来は今になり、今は過去になる。
新しくなった瞬間、今は古さを身に付ける。
昨日の新聞を古いと感じ、先週の雑誌の情報は更新され、去年のカレンダーももう使えない。
時代を感じる作品も愛おしい。でも、僕は時代という感覚を消し去ってくれる作品のほうが好きだ。
モノクロにすることは、時代の感覚を鈍らせる要因のひとつで、セット、衣装、メイク、音楽もその仲間に入る。
古い技術を前衛的なアイデアにのせる事で、過去と未来を混ぜ合わせ、映画の中の「今」をどこかへ持っていく。
デヴィッド・リンチ監督はこの映画で、自身の代名詞ともいえる、ノイズと主観の組み合わせというテクニックを既に完成させている。
暗闇を使った恐怖の演出は、「カリガリ博士」を思い浮かべた。
過去でも未来でもない。見た瞬間に今に変わる。
この作品に時代は存在しない。
2010年5月1日土曜日
エレファントマン
僕は誰にでもやさしくしてきたつもりで、いつでも困っている人がいれば助けたいと思っていた。
でもそれは、そうすることによって自分に返ってくる何か、に期待してたのかもしれない。
やさしさが伝わり、回り、また僕のところに戻ってきてくれるのではないか。
いや、天使が僕のことを見ていてくれているかもしれない。
だから今日は悪いことなんて起こらない。
結局それは間違いだった。期待が大きくなるほど、やさしさは裏切りを好む。
エレファントマンはいつも孤独で、彼に関わるやさしさは、悪意であり、カネであり、愚か者をみる人々の笑いで成り立つ。
しかしエレファントマンの心は侵されてはいない。彼は生活をしていなかったために、大人が持つことはできない純粋なやさしさを持っている。
エレファントマンにとって死は幸福で、不幸ではなかった。
デヴィッド・リンチ監督は、映像をモノトーンにすることにより、この映画に登場する人物の闇をみせ、轟音を抽象的な映像に乗せて、エレファントマンの心の中の悪夢を表現する。
また、エレファントマンの姿を中盤に登場させることにより、観客に悪意を持たせている。
つまり、観客は映画ではなくエレファントマンの姿を見るためにお金を払っている。
僕は、誰かにやさしくするのはその人を助け、自分を助けるためでなく、
自分の心に静寂をもたらすためにするべきだった。
でもそれは、そうすることによって自分に返ってくる何か、に期待してたのかもしれない。
やさしさが伝わり、回り、また僕のところに戻ってきてくれるのではないか。
いや、天使が僕のことを見ていてくれているかもしれない。
だから今日は悪いことなんて起こらない。
結局それは間違いだった。期待が大きくなるほど、やさしさは裏切りを好む。
エレファントマンはいつも孤独で、彼に関わるやさしさは、悪意であり、カネであり、愚か者をみる人々の笑いで成り立つ。
しかしエレファントマンの心は侵されてはいない。彼は生活をしていなかったために、大人が持つことはできない純粋なやさしさを持っている。
エレファントマンにとって死は幸福で、不幸ではなかった。
デヴィッド・リンチ監督は、映像をモノトーンにすることにより、この映画に登場する人物の闇をみせ、轟音を抽象的な映像に乗せて、エレファントマンの心の中の悪夢を表現する。
また、エレファントマンの姿を中盤に登場させることにより、観客に悪意を持たせている。
つまり、観客は映画ではなくエレファントマンの姿を見るためにお金を払っている。
僕は、誰かにやさしくするのはその人を助け、自分を助けるためでなく、
自分の心に静寂をもたらすためにするべきだった。
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